僕は今、30歳になろうとしている。
29回の年を重ね、生きてきたことになる。
ありきたりだが、すごく長かった気がするし、短かった気もする。
これから先に何年生きるか分からないけど、今、考えていることを書き留めておこうと思った。
それがこれである。
自分の一番古い記憶は、母親が自転車で会合か何かに出ようと言う時のものだ。
幼稚園に行ったか行かないか位の時で、その自転車の荷台を両手で引きとめて泣いている自分。
なぜ泣いているかの理由も覚えていないけど、あまりわがままを言わなかった(らしい)自分にしては珍しく理由もなく引きとめたような気がする。
その時一番大切だったのは母親で有ったから、と今にして思う。
小学校生活では、比較的良い子だったと思う。
そこそこ本は読んでいて勉強は嫌いじゃなかったし、先生を困らす悪いことも無かったんじゃないかな?
3,4年の担任の横沢先生の書いた通信簿には「もっとふざける事もしましょう」なんて書かれていた位だし。
この頃は、このまま勉強をしていけば世の中全てのことが分かる、何て考えていた。
勉強するのは辛くなかったし、人より成績がよいのは嬉しかった。
勉強するのは大学までだし、同じ勉強するならよりよい授業を受けたかった。
そして、22歳までの勉強を頑張れば、その後の会社生活は良いものを送れる何て考えていた。横沢先生の通信簿のコメントは、少なからず自分の方向を変えた。
それまで、真面目である事が良い、と考えてきたのがそうではないと否定されたとも感じた。
人にイタズラをしたりしたのも、この言葉を受けての事だった。
褒められれば嬉しく、嬉しければもっとやった。
小学校2年の時には町田市子供マラソン大会に出て、それから毎日走って学校に通った。
短距離はビリから数えたほうが早いほど遅かった自分も、長距離なら勝てた。
勝てば嬉しく、嬉しければ走った。
これは卒業まで続いた。
好きな子も出来た。
子供ながらにその子の家に行くのは、嬉しさと緊張とが入り交じった気持ちだったね。
だからどうしたって訳もなく、遊んでいるだけで幸せな日になった。
高学年の頃には、多少のいじめもあったかもしれない。
まぁ、今にして思えば格別陰湿なものではなかったし、子供なら誰がやっても誰がやられてもおかしく無い程度のものだった。
それでもやられている時はくやしくて泣いていたりもしたけどね、グループと個の関係というのものに。
今までの友達がいない新しい場所=中学校で、自分は「普通ではない自分」でありたいと思った。
子供ながらにして、今までの自分は 面白くない・普通の人間でしかないと思っていた。
そんな自分を変えたいと思う。
まわりの人間を楽しませたい(=Make you happy!)という考えの下、今まで言わなかったジョークを言うようにしたり、ふざけたりもした。
副次的に、自分でこうなろうと考えている自分が自分なのか、今までの自分が自分なのか、分からなくなったりもした。
そんな事に不安になったりしてたあの頃。
それでも自分の事を考えてみるというのは、大人への階段の一段だったと思う。
入学早々に、上級生に呼び出されたりもした。
物事を良く分かっていない新入生の自分が、階上の人から話しかけられたのを面白半分で受け流していたのがいけなかった。
後で少しだけ怖い目にあったりして。
それからは、目上を尊敬するようにという言葉に、逆らわないようにと言うのも加わった。
部活のサッカーは、辛かった。
体力的に辛いのは今までの自分に経験の無いもので、ショックだった。
小学生から始めていたサッカー自身は好きだったけど、この辛いのはいやで、部活を辞めてしまった。
それは、例え辛くてもこの練習が成果に繋がる、という事を知らなかった為であろう。
これまでは何にしても良い結果が出たのは、その下地(マラソンの練習なり、読書や塾での勉強なり)が有ったからであるが、その下地の入手が辛いと思ったことは無かった。
今の困難を何とかして乗り越えれば良い結果が得られる、と言う経験をする良いチャンスを、辛ければ投げ出してしまう悪例にしてしまった第一歩であろう。
この時、この辛い練習を乗り越えるモチベーションが有ったら(若しくは与えられていたら)、その後に多少の影響は与えていたと思う。
暇だ。
そう感じたのもこの頃だった。
暇である理由も分からず、暇である感覚を奇妙に感じながらも、「暇だ」と漏らしているだけだった。
無数とある素晴らしいもの。
世界に五万とあるありふれたもの。
だがそれはかけがえの無い大切なもの。
それに気がつかなかった頃。
それに気づけなかった自分。
この時「何故」をもっと考えるべきだった。
高校に入っても基本は中学の延長だった。
ゴルフ部は、練習すれば上手くなるという実感が得られず、一年でヤメ。
DCCと呼んでいたコンピュータ同好会は、二つのものを与えてくれた。
一つは、コンピュータと言うものに触ること。
テトリヌなるテトリスクローンを作ったり、ワイヤフレームで3Dオブジェクトを動かしたりと、プログラムの基礎を経験した。
N88-BASICのリファレンスマニュアルを読破したり、学校でも習っていない行列を自分で勉強したりと、やりたいことは苦もなくやりこなしていた。
もう一つは、組織という存在。
当初はサークルというものに対する認識が足らず、自分の中ではただの「高校内の一認可グループ」でしかなかった。
だから、OBがその中に普通の顔をして同化していたり、OBと一緒に~~をすると言う感覚に、違和感を感じていた。
その間違いに気づいたのは卒業してからだった。
申し訳ありませんでした、OB・OG諸氏殿。
また、ここで部長というものをもっと経験しておくべきだったと反省。
フラれもした。
それまでの期間、彼女と喋るのがこんなにも楽しいかと驚いた。
人を好きになると言うことが、こんなにも人を突き動かすのかと驚いた。
自分の中でこんなにも涙があるんだと驚いた。
ただ、人の心をこちらに向かせると言うことを分かっていなかったから、当然の結果なのだが。
#まぁ、その逆もしたし、実は好きでしたと(10年経ってからだけど)言われたりと、青春の一ページは一応刻んでいたようですな。
受験も同様に済ませての大学では、空一辺倒!
それまで空との接点は余りなかった。
自分が子供の頃、父が航空際で撮った写真を見たのと、父が作ったF-4ファントムのプラモデル位。
#厚木基地のファイナルに乗ったファントムが頭上を飛んでいたのは、空との接点ではなく轟音の存在としてでしかなかった。
いや、予兆はあった。
DCCにOBがたまたま持ってきていた、AirCombatというゲーム。
当時のPC9801-U2でも動く普通の3Dフライトシミュレータ。
それを体験した晩、夢で空を飛んでいた。
目が覚めてもありありと思い出せるほど、強烈な印象が残った。
入学式で航空部が有ると知ったとき、勧誘されて一分で心の中では入部を決めていた。
体験搭乗で、世界観が変わった、、、。
米粒のように見える車
遠くまで見えるlandscape
thermalで上昇する不思議な感覚
道なき道を行く自由と決断
そしてそのpenetration
その日から空の住人になった
好きなことをするのは苦にならない。
数少ない情報をかき集めての勉強も、授業そっちのけの合宿全参加も、50km以上離れた滑空場への陸送も、炎天下でR/Wを走ることも、寒空の下で機体に付いた氷を落とすことも。
初ソロが同期で一番に出られなかったことに悔しがり、初ソロであわや30分というフライト(2回しかないアーベントサーマル経験のうちの一回!)が出来たことに喜ぶ。
情報欲しさに、方向舵という機関紙作成に携わったり、合宿所は他校と共同利用ということもあって友達を作ったりと、ネットワークを広げた。
そう、「広げた」のだ。
目的は兎も角、自分から初めて人と付き合い始めようとした瞬間でもあった。
今まで、友達と言うのは始めからそこに居た。
付き合うかどうかは考えたことがなかった。
よく喋る友達が居る、よく喋らない友達も居る、だけだった。
そうではない、自分から会いに行くのだ。
これを学習した。
惜しむらくは、これを「学習」した所であろう。
本来この事は人間として自然に出来ていないといけないことだと思う。
だからこの「学習」結果を、今も僕は「発揮」している。
始まりは兎も角、最高の仲間に囲まれて、僕は航空部生活を送った。
単座機に乗る嬉しさ、心細さ、自由感、責任感、信頼。
合宿を回す難しさ、計画、準備、実行、障害、達成感。
そして何よりも大気との対話。
これは正確な言葉には出来ない。
言葉は人間の生み出したものであり、大気に元々有ったものではない。
それを言葉に出来たとしても、それは言葉を当てはめただけであり、正にそのものである訳では無い。
正確に表現はできなくても、非常に多くの対話をした。
初めて館林に単座で到達した嬉しさ、振り返ったときのパス角の小ささに縮み上がる心臓、トンビにサーマリングで負けてキャノピーに糞を付けられた悔しさ、1年後にトンビを抜き返した高揚感、「ここ」にだけ降って地上にすら届かない雨、下から降ってくる雪、R/W真ん中で停滞した前線を利用したK8Bでの25km×6周=150km、30分を切る速度で周回を重ねた鳥海と共に飛んだフライト、中日戦での3フライト16時間33分、レージー8のダイナミック感、翼端の先までもが指先であるかのように手足のように感じたASK23B、+5を振り切るサーマル。
Tocumwalは凄かった。
かなり疲労した初めての5時間フライト、50km先のJerilderieまで足を伸ばす恐れと嬉しさ、それでもすり鉢を出ていない無力感と自然の凄さ。
社会人になってからWaikerieと2度目のTocumwalに行った。
ここでも自分に300kmを達成させる気象に驚愕し、その後押しのおかげながらもすり鉢を出る嬉しさ。海から300km離れた内陸までやってくる海陸風と、その前線でのタービュランスの凄さ(ボトルの水がキャノピーにこぼれる!)、50km飛ぶことがローカルフライトな日常、etc、etc、、、。
これらの生活を共に過ごした仲間は忘れようが無い。
一つの目的で一緒に動き、悩み、時にはケンカもし、笑いあった。
森から流れ出る冷気を受けだけで同じ事を考えられるときもあったし、1000mの索を通じて語り合った時もあった。
彼らとは今なお交流が有る事を幸せに思う。
これらの仲間と経験はかけがえの無いものであり、今なお自分の中で生きている。
このことを内に秘めておくことが出来ようか。
航空部ではもう一つ素晴らしいものを手にした。
心細い一人暮らしの話し相手から始まり、カーペットを敷く手伝いやらなんやらをしている内に始まった仲。
ただ居るだけで嬉しいという感じ。
自分が居ることが嬉しいと感じてくれる嬉しい感じ。
してあげたいと思うことを嬉しいと感じてくれる感じ。
つまらないことでケンカをして、悪いという感じ。
仲直りすることが嬉しい感じ。
まだまだしてあげられた/してあげるべきだったことを今更ながら感じるが、それでも幸せな日々だった。
今はただただ感謝。
あの頃言えなかった言葉を、今でも面と向かっては言えないけど、ここで書こう。
「ありがとう。」
会社に入って、SEになる予定ながらも初めは営業をやるという。
イヤイヤやってた営業だが、それでも営業はモノを売る仕事ではないと気づかされる。
飛び込みを行い、それこそ全く係わりの無い人と喋る感覚は、初めてのモノだった。
それこそ反応は千差万別で、人間は100人いれば100通りの人格・人生・状況・経験が有るのだと実感する。
うちの会社から買っているのではなく、自分から買ってくれている(様に感じた)人が一人だけとはいえいたことが、一番嬉しかったことだ。
これは、後のSE時代にも大きく影響した。
SEとなってからは色々勉強した。
それは勿論、SEとして必要な知識であったり、お客さんとの交渉術だったり、プロジェクトの進め方だったりした。
う~ん、現在メインの仕事の話なので、あまり書かないでおこう、、。
ただ、今の会社で嬉しいのは、部署が変わってしまっても今までと同じ様に集まれる仲間がいることだ。
会社から一歩出るともう他人、と言ったような職場も有るらしいけど、ここでは休みに野球をやったりキャンプをしたりスキーに行ったりと集まれる。
僕が今の会社を辞められない理由の一つだ。
麻雀を、遅ればせながら去年の12月に始めた。
賭け事は胴元が儲かると決まっているからやらない、というポリシーだった。
麻雀は、完全に確率のゲームと決め付けていた。
それでもやってみたのは、まぁ、異動後の職場での話しの種になるかな?程度の気持ちからだった。
全然違った。
相手の考えを読むこと、場の流れ、牌の流れ、自分の流れ、ちょっとの違いに気づく繊細な心。
今までの自分に無かったものだ。
確かに基本的な技術は必要だし、確率が無くなる訳ではない。
それでも、今までの自分にはおよそ考え付かなかった要素が卓には満載されている。
今までの負け分はちょっと痛いが、これを教えてくれただけでも授業料としては高くない。
後はそれらを知った上で勝つことだけど、それはなかなか難しいですな。
「凄い」ことが人に感銘を与えると思っていた。
ビックリすること、大記録の達成、優勝、etc。
勿論それらは、人を感激させ、感涙させ、歓喜させる。
しかし、そうでなければ出来ないのであろうか?
否。
最近は、小さい事、ちょっとした事こそ、人に影響を与える大きな要因になりうると感じている。
それは、ただの目配せだったり、その人がその事を喋らないことだったり、一本の電話だったりする。
但しそれは表に出ているのがそれだけである話だ。
実際にはその裏に大きな心が隠れている。
その心を感じて行動し、人生にプラスになるようにしたいと思う。
まだここに書いてないもので、書きたいものがある。
本来なら既に書かれているべきものであるはずなのに、それは書けなかった。
いや、今でもそれが大切でない訳が無い。
ただ、象形的事実ではなく実感としてそれが存在しないのだ。
それを実感する、その為に行動を起こす。
この行動も本来既に備わっているもののはずだけど、僕には無い。
無いことを非常に残念に思う。
しかし、それはこれからも無いと決まっているわけではない。
だからこれから僕はそれを手に入れたいと思う。
その為に行動を起こす。
ただ、今の僕には行動の仕方が分からない。
30歳という僕は、まずこれを探すことから始めようと思う。